COMPANY

会社概要

果汁どまんなか

私が大学を卒業する頃は、就職難の時代だった。そんな時、ある会社の募集要項に目が止まった。
社名はヤンズ通商。本社は、当時の憧れの地、銀座にある。かっこいいじゃないか。しかもカタカナ名の商社だ。
大学で学んだ英語もいかせる。よく調べず、ミーハー的に入社してしまった。
これが、私と果汁との長い付き合いの始まりだった。

人は彼をジュース博士と呼ぶが

ヤンズ通商は、ジュースを扱っていたが、合成甘味料で作り、着色料で色をつけた、色水のような代物だった。別にヤンズ通商が悪いわけではなく、当時は、他社のジュースも同じだったのだが、営業担当として、そんな偽物を売り歩くのは抵抗があった。直ぐに辞表を出そうと思ったが、父に止められた。
「どんなところであれ、3年は続けろ、そうすれば何かつかめる」と。
今思えばその通り。偽物を扱うはめになったからこそ、本物志向にめざめたのだし、私をここまで引っ張ってくれたジュースの博士と云われた荒木茂喜氏ら多くの先達と知り合うことができたのだから。

72年、大きなチャンスが巡ってきた。日本政府が、日米通商交渉により、オレンジ果汁の緊急輸入を実施。ヤンズ通商が全数量を引き受けることになったのだ。本場のオレンジ果汁は、濃厚で実においしかった。取締役営業部長になっていた私は、自信を持って、売り込みに奔走した。まず大手百貨店が、取引に応じてくれた。果汁100%のジュースは、口コミですぐに完売した。次いで、ホテルなどにも販路は広がった。

すると、国内のみかん生産地が騒ぎ出した。日本の生産者が全滅すると。自分たちでジュースを作ったところもあったが、設備が乏しく、製法もままならない状況であった。
当時の荒木社長が政府に交渉して、国内産ミカン果汁と米国産オレンジ果汁の違いを認識してもらい、バレンシア商標の認可をとりつけた。
オレンジの輸入が自由化になったのは、それから4年後であった。

ヤンズ通商が倒産。

74年に、ヤンズ通商が倒産。オレンジの商売を引き受けてくれた丸紅食料に入社し、オレンジ戦略に携わることになった。
でも、だんだんサラリーマンが息苦しくなってきた。2年余りで、会社を辞めた。
77年4月、会社を設立。社名は、私の名からとって(株)佐弘商事とした。安易だと思われるかもしれないが、当時の私は、起業というより、妻子を養っていかなければと必死で、社名にこだわりはなかった。
でも易者さんには、字画がいいといわれた。皆様のお陰で会社の業績も順調で、今思えば、いい命名だったようだ。

日本が本物志向になることは予測できた。

果汁一筋できた私は、本物の果汁を扱いたい欲望にかられまずはヤンズ通商のレモンジュースに着目した。
しかし、無一文で資金は全くなかった。そんな私に、手を差し伸べてくれたのが、ヤンズ時代の社長であった、故荒木茂喜氏だった。
荒木氏の紹介で知り合った坂本香料(株)の提野隆社長と、(株)三幸硝子の金子昭三社長が、 「資金を考えずにやってみなさい」と、協力を申し出て下さったのだ。嬉しかった。お三方がいらっしゃらなければ、今の佐弘商事はなかったろう。

SAKOブランドの、レモンジュースの製造販売を開始した。営業には自信があった。
品質も確かだ。大量生産する大手と異なり、少ロット生産で、いつもフレッシュなのも評判を呼び、製菓材料、喫茶店向け、さらにホテルのレストランやバー等々、業務用の需要が拡大していった。
90年代にはいってからは、100%果汁のライムジュース、グレナデンシロップなども開発し、約7年かけて、バーカウンターに必要な果汁を揃えた。

また、大手居酒屋チェーンにこれらの商品を持ち込んだところ、高い評価を受け、現在も、そのチェーンでチュウハイなどに使う果汁の製造をPBでお引き受けしている。

緊急の電話が入った。「カビがはえています」

80年代半ばには、サンリオブランドのジュースを作った時のことだ。
発売前日の夜、家の近所の店舗に並べられたジュースを見に行った社員から緊急の電話が入った。「カビがはえています」と。私もすぐに確かめに走ったところ、やはりカビが発生していた。 すぐに全品回収の指示を出す一方、深夜にサンリオ本社に駆けつけ、出勤してくる責任者を待った。
そして、事情を話し、平謝りに謝った。罵倒されて当然、賠償責任も派生すると覚悟を決めていた。
だが、意外な言葉が返ってきた。「よく、事前にカビを発見してくれた。手際良く回収してくれたので、お客様に迷惑を掛けずにすんだ。賠償請求はしない」と。

ありがたかった。この時、賠償請求されていたら、佐弘商事は潰れていただろう。
町工場で作らせていたため、衛生管理が杜撰だったことが原因だった。すぐに、信頼できる工場に製造拠点を移した。

満天の星がきらめく中、エトナ山から真っ赤な溶岩が流れるのが見えた。

97年は、私にとって忘れられない年だ。この年、私は、良質のライムを産する、イタリアのシシリー島に、ライムの調査に出向いた。シシリーライムは素晴らしかった。商談も順調に進み、夜、ホテルの部屋から夜空を眺めていた。今の活動中の、エトナ山が見えた。満天の星がきらめく中、エトナ山から真っ赤な溶岩が流れるのが見えた。 感動した。朝みると、白煙吹く山容も神々しかった。
帰国してすぐに、エトナを商標登録。ブランド名をSAKOからエトナに変えた。
この年に発売した「ハイマトリーざくろ」も、おいしいだけでなく、健康飲料としても評価を受け、大ヒット。
今も売れ続けている人気商品だ。
98年、私は台湾に飛んだ。トロピカルフルーツを調査する為だ。長年、果汁に携わってきた私の嗅覚が、トロピカルフルーツの可能性を捉えていた。2年をかけて、製品化に成功。00年に、日本初のトロピカルジュース、ライチ、グアバ、マンゴーを、世に送り出した。

さらに06年、高価なゴールドキウイのジュースも発売。ビタミンCが豊富に含まれており。
佐弘商事初の、栄養機能食品となった。これらをあわせたプレミアジュースシリーズは、期間商品の一つとなっている。

果汁に出会って50年。会社を設立して30年。故荒木茂喜氏は、”たかがジュース、されどジュース”と、ジュースにも哲学があることを教えてくれた。
果汁は奥が深い。品種やその土地の気候風土により、とれる果汁は全く別の味になる。
もちろん美味しいことや安全な品質は大前提だが、ストーリーなき果汁は商品としての価値を失う。
これが、私の信念であり信条だ。

これからも、この理念と信条を貫き、皆様のご協力を得て、日本人の味覚に合う、新しい果汁を開発していきたい。
果汁に係る新しい世代も育てたい。
また、今、佐弘商事は、北海道、関西に、駐在員をおいているが、近い将来、エリア別に販売会社を作り、駐在員事務所を企業に発展させ、駐在員を経営者にとも考えている。

報恩感謝

皆様に導かれて、2007年に30周年を迎えることができました。
常に”報恩感謝”を心に、次の30年への歩みを踏み出したいと思います。

30th

株式会社佐弘商事30周年記念式典 /
2007年4月20日 帝国ホテル・本館 桜の間にて